Photo: Josh Trujillo / Seattle Post-Intelligencer
Letter Cloud at the Wing Luke Museum.

アジアンアメリカンの文化遺産

アジア太平洋系アメリカンは、シアトルの入植が始まって以来、シアトルの歴史において重要な役割を果たしてきました。

中国人の開拓者は、仕事を求める男性の単身者が1860年代に初めてシアトルに入植し、鉄道、鉱山、缶詰工場、製材所で働くようになりました。ウォーターフロントに中国人地区が生まれ、その後数ブロック東に移動しました。景気の低迷により、反中国人の暴力が生まれ、差別法が成立しましたが、中国人は街の成長において重要な役割を果たし続けました。1889年のシアトル大火災の後、チャイナタウンは再び移動し、フィフス・アベニューS(Fifth Avenue S)の東に新しい宿泊所やコミュニティ組織が誕生しました。

アジアンアメリカンの開拓者や移民は、チャイナタウン・インターナショナル・ディストリクト(Chinatown-International District)と呼ばれる複雑な多民族の都市部を形成しました。また、ピュージェット湾(Puget Sound)一帯の農業地帯や林業従事者の宿泊所などのコミュニティでも生活していました。ルーズベルト大統領が1942年に署名した大統領令9066号により、第2次世界大戦中、西海岸の日系アメリカ人は収容所に入れられました。この政策により、都市部も農村部も大きな影響を受けました。

日本人開拓者は1880年代に入植し、農家や商人として働きました。多くは単身の男性がワシントン準州に入り、後から「写真花嫁」が国許から嫁いでくるという形でした。土地所有に関する差別法により、移民一世の努力はなかなか実りませんでしたが、アメリカで生まれた二世は土地を所有したり、他の独創的な方法で所有権を手にしたりできる場合もありました。チャイナタウンの北のSメイン・ストリート(S Main Street)とシックスス・アベニューS(Sixth Avenue S)周辺には「日本町」が生まれて都市部の住民に食事を提供し、農村部の日本人家族にも支給していました。

太平洋諸島の出身者はハワイの先住民がキャプテン・バンクーバーとともに1792年にピュージェット湾(Puget Sound)に到着して以来、太平洋岸北西部の歴史の一部となっています。20世紀初め、フィリピンがアメリカ領になると、多くのフィリピン人が教育や仕事を求めてシアトルにやってきました。

1960年代以降、シアトルは韓国人、ベトナム人、カンボジア人、ラオス人、タイ人、モン族、南アジア人の移民を受け入れています。環太平洋の文化が融合し、この地域独特の雰囲気と美意識が生まれました。アジアの伝統文化の影響は、建築、庭園の設計、料理、アートなど、シアトルのあちこちで見受けられます。

今もなお、チャイナタウン・インターナショナル・ディストリクトがシアトルのアジアンアメリカン・コミュニティの中心地となっていますが、ホワイト・センター(White Center)、ベルビュー(Bellevue)、フェデラル・ウェイ(Federal Way)、ショアライン(Shoreline)などの地域コミュニティも多民族のレストランやお店でにぎわっています。たくさんのお祭りやイベントで伝統が守られ、さまざまな博物館や遺産地でシアトルのアジアンアメリカンの歴史と文化を学ぶことができます。

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